CGでご飯を食べたかった男の10年
2012年ももう残り僅かとなりました。1年を振り返るのもありなのですが、今年は同人活動を初めて2年経った伏し目なので、これまでの経緯などを書いてみます。長いです。
【小中学校】
TVゲームが好きなごく普通の鼻タレ少年でした。バーチャファイターに度肝を抜かされ、そのキャラの存在感にビビる。将来はゲーム作りたいと思ってたけど、バーチャを見てから「3DCGってどうやって作ってるのか知りたい…」って思うようになった。あまり進路を意識してなかったけど、「まずはパソコン出来る様にならんとゲームも作れないっしょ!」という短絡的な思想のもと、高専の情報工学科を目指す。
【15~20歳】
高専の情報工学科にそこそこ優秀な成績で入学。8時限授業、毎週の実験&レポート提出、クラスメイトがビシバシ留年して卒業時に2/3に減る程の厳しい学力主義の中で、プログラミングやハードウェアの知識を学ぶ。
その最中、趣味で3DCGをはじめ、メタセコ・strata
studio
proなんかを触る。キャラアニメーションを作りたかったのに当時浅い知識で学割購入したstrataはアニメーションには全く向いておらず、まともなUVの概念も無いので、専らメタセコでモデリングしてstrataでレンダリングし、「ウフフ…レイディオシティは綺麗じゃのう…」と画像を眺めてニヤニヤしてた。その他にも、当時普及を迎えつつあったインターネットにハマってお絵かき掲示板で絵を描いたり、ホームページ作ったりもしてた。学生寮はネット回線が無かったので携帯でネットして多額の電話料が請求され、親に怒られた。CGに恋をしてからは成績はダダ下がりで、奨学金継続も綱渡りだった。
【プーから始まる
20歳】
微妙な成績なのになんとか貰えた大学の推薦…だったのだが、親に「やる気ねぇなら行くな、そんな奴に出す金もねぇし」と諭され、卒業寸前で辞退。当然ながら担任の先生に超怒られ、進路の定まらないまま卒業式を迎える。社会人生活一年目はプー太郎でスタートすることとなる。
路肩にまだ雪の残る札幌の春、北大に編入した友人の家に遊びに行く途中、WEB・DTP・広告製作のバイト募集を見つけた。情報工学の知識と趣味でやってたWeb製作能力を武器に面接を受け、ひとまず採用まで。その会社はカメラマンの社長、DTPお姉さん、プログラミングお兄さん、俺…という4人だけの小さな職場だった。研修期間だと言って、バイトの最低賃金を下回る時給640円で働く事になった。
働き始めて1ヶ月、DTPお姉さんからイラレ・フォトショの技術を学び、プログラミングお兄さんからはPerl等のWebプログラミング技術を実践で学び、グラフィックもプログラミングも出来る様になり、「おい、俺が居ないと困るんだろ?給料を上げろや」と脅してあげて貰う。でも時給700円(笑)。
一方その頃、3DCGも低価格化の波が訪れており、mayaのPLE(レンダリングに透かしは入るけどほぼフルで使える体験版)や3dsmaxの簡易版Plasma(バージョン1.0で終わった不安定ソフト)等が出てきた。バイトの貯金でなんとかPlasmaを買い、そこで初めてハイエンド3Dの世界に足を踏み込む。ウェイト付け?UV?インバースキネマティクス?はて何のことやら…3dsmaxの解説書籍と格闘しながら勉強するが、当時のPC環境のショボさと、plasmaの安定性のヤバさが重なって、ろくなものが作れない。
【そろそろ3DCGを】
半年ほどバイトした頃、「あぁ、3DCGで食ってくにはどうすれば良いのかそろそろ調べっかな」とググり、デジハリ等の3DCGの専門学校が有る事をやっと知る(ォィ)。学生時代の就職・進学の段階で北海道から出るつもりは毛頭無かったが、北海道にはゲーム会社がハドソンしか無くて募集もしてない。リクナビ見て、当時募集してたFr○mSoftwereに「3dsmaxで仕事が出来る!」という理由だけで作品を送ってみるが、見事に返送される。まぁ今思えば職歴無し、専門学校も出て無い奴なんか書類選考で落とされるのは当然なわけです。
で、当時2chで4大クソCG会社と揶揄されていた中の1社(入ってから知ったけど)が「専門卒じゃなくても作品選考から募集!」とあったので、履歴書と作品を送ってみる。すると面接するから会社(渋谷)に来いと。飛行機で飛び、当時東京に就職していた友人に泊めて貰って面接。学生時代の面接の練習なんてま~ったくやる気無かったけど、その面接ではアホほど話した。履歴書の自己PR欄も狭くて書き切れない位だった。そのくらい3DCGがやりたかった。
いったん帰って連絡を待ち、メールが来たが…今度は2次面接に来いと。「飛行機代いったいいくらかかると思ってんだ~!」と思いながら2次面接行くと、「そうか、μ爛々君はアセンブラのプログラミングも経験してるのか…丁度社内でパチンコ開発関連の事案があってね…最初はその仕事になっちゃうかも…」と。挙げ句に「あ、でもμ爛々君はこっちに家が無いもんね」と言われる。「おいお~い、遥か北海道から二次面接に呼んどいてソレかよ…」と思ったが、専門学校を経由してない自分は、何が何でもCG会社に入ることが先決だったので、「いいですよ、明日家契約してきますから」と言いきり、友人に1週間滞在させてもらう約束をし、翌日神奈川に部屋を契約に行き、さくっと決めた。
【最初のCG会社】
12月の中旬に神奈川に引っ越し、渋谷の会社に通う生活が始まった。バイト付けでモヤモヤとしていた自分の人生が動き出した。社内はO2やOctane等のSGIマシンが立ち並び、皆Mayaを使って作業していて、もうそれだけで「すんげ~!!」と思った。が、俺の仕事は当初の話通りパチンコのプログラミングの仕事だった。目の前にはHitachiのH8基盤と小さな液晶、PCの画面にはC言語とアセンブラが映っていた。
社長は893みたいな人で、昼過ぎに来ては社員を睨め回し、要らんチェックと注文をしてプロジェクトを滞らせる様なよく居る典型的なワンマン社長だった。会社のシステムとしては朝11時出社の終電帰り。そして土日のどちらかはたいてい出社なので事実上週休1日だった。作業が終わらずに泊まり込んで始発で帰った場合はお昼の2時の出社で良いが、プロジェクトの管理担当の人間は来客や取引先からの電話が有る手前、どの道昼前に会社に居ないといけなかった。
そうそう、入社した翌日に俺の隣の席の超カワイイ女の子が社長室から泣きながら出てきて、その翌日辞めてったっけな。セクハラされたらしい。まぁ要するに糞会社である。しかし、北海道の実家にとんぼ返りしたくないので必死で頑張った。「アセンブラなんて普通に高専から就職したクラスメイトですら今日日やっとらんぞ…」と思いながら、ホントに必死で頑張った。
そして、入社から2週間程経ち、やっと液晶に動画が流せた。超嬉しくて、一頻りチェックを終えて帰ろうとしていた社長を「待って下さい社長!」と呼び止め、見てもらった。どうも社長は相当な寂しがり屋さんだったらしく、こんな風に自分にアクセスしてくる人間が出てきて嬉しかったのだろう。その日から妙にお気に入りにされ、まだ20歳で職歴も無い俺がいきなりプログラミング班のリーダーに抜擢され(名刺にもそう書かれ)、社長と東急の最上階の喫茶店で毎日の様にマンツーマンでお茶させられる…という、よくわからない事が起こった。
給料も毎月2万くらいずつ上げられていた。俺の初任給は18万で、初月は日割りの12万だった事を覚えている。初めての独立生活で得た給料は嬉しかった。でも何も無い6畳間で布団が届くまで段ボールに入って寝てたときは寒かったなぁ~(泣)。
【CGをやらせて貰う】
パチンコの仕事が流れた。俺の作業スピードの問題も有ったかもしれないが、どうも取引先と社長が喧嘩したらしい。俺にとってはラッキーだった。パチンコ基盤の仕事はエラーが許されない。エラーで玉が出過ぎてもホールに訴えられ、玉が出なくても客から苦情が殺到し、本当にリスキーなのだ。
そんな感じで、入社2ヶ月でやっとこ…アセンブラプログラミングから解放された俺は、当時立ち上げ中のゲーム制作専門会社(実際は本社の税金対策の赤字押しつけ会社だった)の、最初の仕事をとるための試作ゲーム用キャラモデリング、セットアップ、モーションをやったり(Maya)、社内で製作中の某忍者アクション用opムービー用のミリタリーな兵士のモデリングと、ハイポリヘリコプターのリダクション(SI)を行ったりした。あぁ…俺CGで飯を食ってる…様な気がする…と、しみじみと思う日々。
他にも、ゲームのプレゼンムービーで、絵コンテにAfterでアニメーションを付ける『動画コンテ』の制作で、数日泊まり込んでいた美大卒アートリーダーさんの手伝いもした。なんでも、先日面接で入ってきた『おジャ魔女どれみの作画やってた』との触れ込みの元アニメータが二日で逃げ出したらしい。面接で提出したイラストが効いたのだろうか…ともかく代打とは言え、プロの現場で自分の手描きの絵のスキルを必要とされたのは非常に嬉しかった。
【打ち合わせにも出る】
その後、「μ爛々君モデリングは早いから」って事で、外資系企業の某ゲームのキャラクター用服モデルを作る仕事に単独で抜擢された。打ち合わせに出たり、電話での進捗報告なども担当し、なんだか平社員どころじゃない役所を任されることになる。
その仕事はなかなか大変だった。デザイナーは俺と、取引先の会社のイケイケお姉さん(1週間だけ3dsmaxの講習を受けた)。この二人でキャラの服やアクセを量産する…はずが、お姉さんはクオリティもスピードも全く使い物にならず、結果的にほぼ俺だけでやることに。タダでさえ大変なのに「助っ人が入ったぞ!!」と、新人の美大卒のお兄ちゃんがあてがわれた…が、なんとフォトショすら使った事が無い。しかも使い方を教えて数日で風邪引いたままバックれたりしてな(泣)。検索すれば黒い噂が一杯出て来る会社なので、こういったケースは一度や二度じゃ無いんですけどね…。
結果的に、ほぼ一人で300パーツの服やアクセサリを量産する事になった。取引先からの「これで納品完了です、お疲れ様です!」という電話を聴きいた後、精魂尽き果てて俺は床に突っ伏して寝ていたらしい。その日面接に来ていた後の仕事仲間がそれを横目で見ていたそうで、「あのときはとんでもない会社に来ちゃったと思った」と言っていた。ええ、まぁ、その通りです。結果的にはローポリとUV、テクスチャの能力が非常に向上した仕事だったな。
ちなみに、このとき作成したデータは国内用オンリーのハズだったものだが、どうもワールドワイド用に本社で作っていたデータが(デザイナーの作業スピードの問題で)足りなくて、初めて日本のスタジオで作成したデータがワールドワイド版に収録される運びになったそうな。しかも今まで外注企業の名前はクレジット記載はされなかったのに、例外的にされることとなった。頑張った甲斐があった…。そして、この仕事が後の大きな仕事に繋がることにもなる。
【プロジェクトを回す】
因果なもので、パチンコの仕事が戻ってきた。といっても、今度はプログラミングではなく、演出のCG動画製作だった。当時は海物語が大流行していて、パチンコの演出をリアルタイム・プリレンダ問わず3DCGで作るという流れが確立しつつあった。バブルが弾けて久しいゲーム業界の仕事は安く、CMやTV等の放送業界の仕事も色んな意味で厳しかったので、例え従業員ウケは良くなくても、存続のために羽振りの良いパチンコの仕事を受けざるをえないのは、どこのCG会社も同じ状況だった。
そして、最初に受けたパチンコ動画の仕事を、何故か俺が一人でやることになった。従業員が他のゲームムービーのプロジェクトで占有されてること、絵柄がチョイオタっぽくて俺が面接で出した絵柄に近かったこと、俺が「一人で出来ます」って言ったこと(ォィ)が、その理由だった。ソフトは何でも良く、好きなプラグインを稟議書書けば買ってよい…という事だったので、3dsmaxとプラグインてんこ盛りでやった。
とはいえ、3dsmaxでの初めての動画製作である。入社から半年余りで、この程度のスキルの人間が一人でやるって…そりゃはっきり言って専門学校生に卒業作品でパチンコ動画作れ!って言ってる様なもんだわ。が、その時のやる気と、「自分なら出来る」という自負心はただならぬものが有った…と思う。
初めて付けるBipedでのモーション、皆が帰ったあと会社中のマシンにBackBurner(ネットワークレンダラー)を入れてレンダリングをブン回し、GIのチラ付きに悩まされながら破壊エフェクト造り、布シミュにもチャレンジし…。社内では5人で作業しているという口裏を合わせながら電話で進捗報告し、もう『21歳☆灼熱の時』ですわ。まぁ、俺も頭おかしいが、そんなことを任せる会社も狂気だったよな。相手パチンコですよ。
そんなこんなでプロジェクトも7割程度が終わった頃、3dsmaxを建築系の仕事で使っていたという方が入ってきて、キャラCG動画の経験は無いものの、これまでの人とは違ってやる気に溢れ、さらにエフェクトや背景という自分とは真逆の分野が好みだったので、納期に冷や冷やしつつもなんとかプロジェクトを完遂することが出来た。
その頃には座る席も幹部席になってて、給料も30万を超えていた。新しい椅子発注の際、「人の3倍は仕事してるので、俺だけシャア戦用にして下さい」ってことで赤い椅子を買って貰った。そんな程度でこれだけ働く21歳が居るなら、俺も今雇いたいわ(笑。
【トゥーン】
リリースされた最初のパチ作品は非常に好評だったらしい。親会社であるS社の評価も高かったそうな。実際のところ、パチの人気は絵柄以上にゲーム性やギャンブル性に左右される。面白くない台だったらいくらCGが良くても人気が出ず、すぐにホールから撤去される。さらに、お客さんに「この絵は出ない」というすり込みが起こるために、人気が出なかった場合には、次の仕事が来ない場合も有る。勿論CG会社からしたら色んな絵柄は作れるし、とばっちりもイイトコなのだが…まぁ、お金と決定権を持っている人の判断は絶対なのです。「あそこの会社はもうアカン!別のとこ探さんかい!!」と言われればそれまでなのである。
実力のうちである『運』でもって信頼を勝ち得たお陰で(笑)、その後も幾つかの動画の仕事を頂くことが出来た。親会社の往年の看板キャラのパチも任された。その際、演出動画以外に『図柄』も任された。『図柄』はパチンコする人が常に見続ける作中でも非常に重要な要素でクオリティを求められるため、それまで社外発注はしたことが無かったらしい。光栄な話である。さらに、動画パートはトゥーンシェーディングでお願いしたい…という。学生時代からLightWaveのスーパーセルシェーダーなんかに憧れていた身としては、これは実践でトゥーン動画を作れるというまたとない好機だった。
作りたいなら趣味で作れよ…と思うかも知れない。しかし、就職してからずっと、家に帰ったら休日さえ寝る時間しか無い様な生活なのだ。いくら実践で実力が身についても趣味で何か作ろうなんて気力も時間も全く無いわけです。そういう意味では、少しでも自分の趣向に近いCGを仕事で作れるのは、本当に嬉しい事だった。
その時はfinalToonを導入し、変身シーンやロボットの合体シーンを作ったり、スケジュール的にも前回の自分の製作スピードを鑑みてしっかり提示したので、無理をしなかったわけでは無いものの、予定通りにプロジェクトを完遂出来、楽しかったのを覚えてる。
【退社】
そのトゥーンのパチ動画仕事を終えた後、俺は会社を辞めた。『セカンドインパクト』と呼ばれる一斉退社の2ヶ月後くらいだった…と思う。セカンドという位なので、ファーストインパクトも有るが、それは俺が入社する直前の事らしい。俺が辞めた後でサードもフォースも有った。とにかく、厳しい作業環境の中でもプロジェクトの途中で逃げ出さず、終わるまで耐え抜いた素晴らしい戦士達の卒業式…そんな感じの一斉退社の事なのです。たぶん。
1年半居たその会社を俺が辞めるまでの間に、いったい何人の人間とすれ違っただろう。入社当初から居た先輩、入ってすぐ辞めた根性無し、辞めていく俺を見送った後輩、全て遭わせて40~50人くらいなのかなぁ。給料が安い、自由な時間が無い、徹夜や休日出勤で体がしんどい、理由は様々。技術の有る人がどんどん辞めて、ノウハウも残らないので居ても意味が無い…と言って辞める人も居る。自分は立場上給料は年の割にそこそこだったものの、幹部連中は『毎晩午前2時に社長の電話に出るためだけに、仕事が無くても残っていなければならない』というクソワケのわからんしきたりにそろそろ嫌気がさして、CGの仕事は楽しくてもそろそろ限界…って感じで辞めることに。
しかしこの会社、業界では登竜門的扱いだったらしく、次の会社の面接で「某社で1年働いてました!」と言えば、「あそこで1年も居たのか!なら即実践レベルだな!!」って感じで、下手な資格や専門出るより余程就職に有利だったらしい。実際辞めた後の同僚達が入ったのは、S○E、ス○エニ、フ○ムソフトウェア、ポリ○ンピクチュアズ、デジタルフ○ンティア、etc…と、日本国内のCG関連会社としては当時就職の最終到達地点的な会社ばかりだった。
でも、俺は就職活動はしなかった。会社に居た頃は面接官もやったし、「FFみたいなCGが作りたいんです!」「ピクサーみたいな映画が作りたいんです!!」と死んだ魚の目で訴えかけてくる若者をいっぱい見てきた訳だが、自分にはもとからそういう目標は無かった。もう、単に実家に居るのが嫌なのと、ひたすら「どうすればCG屋さんになれるのか?そして俺はCG屋さんとして食っていけるのか」という問いに対する答えが欲しかっただけなのだ。
そしてその答えは十分に出ていた。加えて、なまじCG以外の仕事…プロジェクトを回すことや、社外の人間との打ち合わせ、人員の育成や面接、ああいう社長と渡り合う話術、色々な経験を積んだので、今から単なるCGデザイナーとして中途採用されるというビジョンもイマイチ描きづらかったのだ。
【第二の会社とカルフォルニャ~】
そんな折、少し先に退社した最初の会社の上司が、「会社を作って例のパチ仕事を引き継ぐからヤラナイカ」と言うので、あまり目標も無くてボーッとしてた俺は「まぁ慣れた仕事を続けられるなら…」と、ひとまず話に乗った。それは結果的にその会社の立ち上げメンバーとなることを意味していた。リザーブしていたパチの仕事は、実際来たのは約1年後になったが、その上司の横の繋がりは結構凄くて、その間も色々な仕事を任された。まだ会社の母屋は無く、俺は在宅で非力なマシンで仕事をしていた。(以下この上司は社長)
2,3ヶ月程経った後、以前300パーツ作る仕事を頂いた外資系企業から「アメリカに来てちょっと仕事してくんないか?」という誘いが。アメリカ西海岸でCGの仕事である。普通はまず有り得ないし、CG屋さんとしての箔も付くだろう。再就職するにあたっても「海外で仕事してました」と言うだけで、まぁ一目置かれるはずだ。
ただ、俺の根底には出不精な引き籠もり精神が有った。今までの経緯を見るとアクティブな人間に見えるかも知れないけど、二面性…というより、外壁を頑張って固めて必死にやってただけで、実際は人混みも嫌いだし、無理した分はどっかで引き籠もってグーグー寝てたりしないとダメだったりする…そんな奴なんです。在宅での仕事は、ある意味それまでの1年半の分の休養な気分だったので、いきなり「アメリカ行くぞオラ!」みたいなのは勘弁して欲しかったんですが、ギリギリでパスポートをとり、社長と俺と、もう一人の元同僚(後の最高の仕事のパートナーとなる)と、2ヶ月ほど仕事してきました。
そこは当時世界最大のゲーム会社とされていた某社…その本社はまるで一つの大学の様な巨大な施設となっていて、フィットネス施設、テニス場、巨大なサッカー場まである。社食はビュッフェ形式で、6時以降まで残業すると1000円の晩飯チケットが貰える。注文し忘れた人用に毎晩キッチンスペースに山盛りのチキンとポテトとステーキが置かれ、毎晩食われずに大量に棄てられる。金曜日は『ハッピーフライデー!」なんて言って、おやつの時間に大量のポテチとビール(仕事中にアルコール)が振る舞われる。製作作業場は勿論、小さな会議室の椅子まで全部アーロンチェア。まさに栄華を極めた環境だった。
我々の宿泊施設は会社から歩いて5分程度のモーテルで、それぞれにダブルベッドが二つある部屋があてがわれ、プールも入り放題。滞在したのは6月初旬~8月中旬だったけど、雨の日は1回有った程度で、常にカラッと晴れて「あぁ…そりゃ皆ここに住みたくなるわなぁ…」と妙に納得した。引き籠もりな俺が言うんだから間違いないのだ。
問題の仕事の方は…まずは自分が通用するかという懸念があったが、杞憂に終わった。作業は主に3dsmaxでのモデリング、テクスチャ、ウェイト付け等だったが、我々日本人勢は皆現地の人間より早く正確で、さらにリーダー以外は6時には帰ってしまう現地従業員と違って、毎日午後9時まで作業をしていた(晩飯券の為ってのもあるけど)。
そう、基本的によっぽど作業が遅れてなければ、「デートがあるから6時に帰る」「おk」で通じるのがアメリカの会社なのだ。日本の会社だと他の人が頑張ってるのに帰ったらまずい…みたいな空気がプンプンしてて、時間が余ったら余っただけ根詰めてブラッシュアップするのが正解。それが最高のものを作る方法論…というのが日本式なんだが、アメリカは違った。作業場には中途採用も居れば、現地のインターンも居るし、軍人あがりで「CGやるために勉強してきた」みたいな変わった経歴の人も居た。個々のスキルはそれ程高くないし、時間拘束も厳しくない。ただ、それを回すリーダーはめっちゃくちゃ優秀な人間だったりする。リーダーはプロジェクト毎の全体ミーティングで立候補で決める。別に平社員だろうがインターンだろうが、手を上げればチャンスが有る。
そして締め切りは絶対。でも日本の絶対とは意味が違う。日本なら「締め切りまでに絶対間に合わす!」という意味の絶対となるが、アメリカの場合は「締め切りが来たら今やってる作業はもうそれまで、絶対にもう終わり!」って事。バグが残っていようが、ちょっと作業が残っていようが、締め切りがきたらそこで終わりなのだ。
もうね、製作の締め切り5分前に誰かがロッキーの『ファイナルカウントダウン』を大音量で流しはじめてだね、それが終わって締め切りが来るとみんなで新年のお祝いがごとく「イィィヤッホッホオオオウ!!!」と叫んでパーティー状態。締め切りに間に合わなかった奴も「俺はやってやったぜ!」って顔で肉喰って酒を飲んでる。「あぁコイツらバカだわ~」と思うと同時に、文化の違いを垣間見た印象でしたね。結果的には「行って良かったなぁ…社長ありがとう…」って感じでした。
【エロ同人未遂】
そして暑くてジメジメした日本の関東に帰ってきた。社長も一緒にアメリカ行ってたのもあって、なんとその間4ヶ月程仕事が来なかった。最初の2ヶ月、俺はモンスターハンターGにハマりながらボーッと仕事を待って居たが、貯金も尽きてきて、素麺とスパゲティばかり食べる日々が続いた。『青の洞窟・ペペロンチーノ』は俺にとって小さな贅沢だった。
仕事来ないのが3ヶ月目に突入し、雲行きが怪しくなってきた。「まだだ…まだ就職する時間帯じゃない…」と思いながら、以前ホームページで知り合った方がやってたDLsiteでの同人作品販売に興味を持った。「そういや就職してから絵も描いてなかったし、CGも全く作ってなかったなぁ…今の技術なら色々出来るんだろうなぁ…」などと考え、DLsiteに資料請求してみた。当時でも創設3年目くらいではあったと思うが、資料に入っていた名刺に代表者の方のサインが手書きされていたのが印象的だった。
学生時代ホームページやってる頃、イラストを描いてアップしてたがエロ絵は全く描いたことが無かった。当時はエロ絵をあからさまに晒すサイト自体、少なかったですけどね…見つかるとサーバに削除されるので。そもそも俺はエロで他人と語りあいたいという気も、描きたいという気もぜんぜん無かった。ただただ可愛い女の子が描きたかった。なので、「エロかぁ…俺に出来っかなぁ…」とちと悩んだ。
とはいえ、沢山の作品が名を連ね、赤裸々にDL数を晒している中に自分の創作物を投入してみたら、いったいどうなるんだろうか…という事に、とても興味が沸いてきた。そのDL数は昔自分がハマっていたお絵かき掲示板で、上手い人同士がコメント数争いしているのに似てる気がした(当人は争ってないかもしれないが、いっぱい来ると気持ちいい)。そう考えるとやる気が出てきた。
というわけで、当時観ていたアニメを題材にFLASHゲーでも作ってみようかな~と、2週間程画策したあたりで
「μ爛々君、パチンコの仕事やっと始まるよ」
と電話が来て、俺の同人作品製作は約6年後までその機会を逸してしまうわけである。
【再び3DCG】
社長は世田谷某所に事務所を構え、俺が指定した台数より2台少ない4台の作業兼レンダラーマシンを導入し、約1年ぶりで3dsmaxでのパチンコ動画製作作業を行う事になった。引き籠もりのSOHO生活から、出社する生活に戻ってきたわけです。
仕事のパートナーは一緒にアメリカに行ったK氏と、もう一人の元同僚だった。プロジェクトの始動がなかなかしない場合は、発注時にスケジュールにしわ寄せが来ている…というのはよくあるパターンで、この仕事もかなりキツかった。もう一人の同僚の方が作業中に寝るわ、テクスチャしか出来ないわで、それも悩みの種だった。
その後も仕事は順調に入って来るが、人数に対して仕事のボリュームが大きく、会社立ち上げ時ならではのキツさを味わうことになった。頭数を稼ぐため、専門学校から面接で二人の女性インターンを入れたが、インターンなんて仕事の足しになるわけがないのである。とはいえ、後の力になってくれればと頑張って育成するが、女の子なので厳しくする訳にもいかず、結構気を使う。「社長は仕事とってくるだけで楽だよなぁ」…と愚痴りつつも、俺はいつの間にかインターンの女の子とお付き合いしてて、仕事はキツいものの、ちょっとエッチな日々を送っていたわけです、はい。
しかし、親しくなったが為に仕事では逆に厳しくするようになってしまった。「3年経ったらCGやめてフランス行くの!」というお姫様な夢も、たかだか2年程度とはいえCG仕事の泥臭い辛さを経験した身として、3年で何が出来るようになるんじゃぁ!!と、なんだかイラッときてしまった…若いね…聞き流してアンアンしてりゃ良かったのに。そして、事務所に通うようになって約1年経った12月…俺は痔瘻で倒れ(ワロエナイ)、翌年10日間手術の為に入院する事になった。お見舞いに来て涙を流してくれた彼女にも退院後にやはり仕事で厳しくしてしまい、お別れした上に会社からも去って行きましたとさ。トホホ。
なんというか、今まで無心でCGバカ一代って感じで取り組んできた自分にとって、別途考えなければならないことが増えて本当に頭がメダパニ状態だったんだよな。なんか実際年齢の割に仕事が出来て、プロジェクトも一人前に回せてる自分に優越感を持って、つまり酔っていたところが有ったと思う。しかし、恋人の居所一つさえ自分の心の中に持つことが出来ない…なんて物差しの小さくて余裕がない人間なんだと、本当に恥ずかしくなった。別れた当初は正直ちょっと開放された様な気がしたが、自分の懐の狭さを実感してどんどん落ち込んだ。
【新しい事務所】
落ち込んでようが、仕事はちゃんとやった。仕事人だなぁ…。
さて…俺が退院したすぐ後に、事務所は駅ビルの借家から近所に建った新築の一軒家に移った。つまり、そんな物件を買える様な大金を、銀行が貸してくれる程度には業績が右肩上がりだった…という事らしい。見た目もそこそこCGスタジオっぽくなってきたかな?
そして、設立当初は「ヤラナイカ」と声をかけても「あー、そっすね、考えておきます…」程度だった元同僚の人々や、そのツテの職歴の有るCG屋さん達が、新しく入社したり、短期間の仕事を受けてくれるようになった。実際、上に最終就職企業っぽく書き連ねた日本のCG会社も、給料でいうと最初の会社よりまだ低いところもある。また、上層部が凝り固まっていてなかなか昇進出来ない…それ以前に契約社員になってもそこからなかなか社員になれない…いやむしろプロジェクト単位の契約で終わったらさようなら~ってケースもしばしば。有名な会社に入って仕事の環境も悪くはないものの、将来を考えて別の企業を検討してる人も結構居るとか。CG業界はデカイ会社でも大概ワープアが頑張って成り立ってるわけです。
また、入っては消えていく事が多かったインターン生にも、会社に根付いてくれる子が出てきた。実際、小さい企業へインターンに来る事自体、大企業に入るためのカタパルト程度にしか思ってない子も居る。技術を身につけたら大手企業へステップアップという訳だ。誰にでも職場の選択の自由は有る…とはいえ、育てる側からすると何ともやるせない出来事だ。しかし、やっとここで頑張ろうという子が出てきたのだ。それだけ良い会社になってきた…という事だと思う。俺自身、最初に入った会社で人の流動が凄かったんで、飲み会を企画したりと柄にも無く色々と頑張っては居たんで、嬉しかったですねぇ。社内恋愛で従業員失った罪滅ぼしもありますけどね…ハハハ。
まぁ、中途でも新卒でも、どっちにしても戦力が増えてくれて初期の辛さを経験した身としては、周りが充実していくのが本当に嬉しかった。仕事的にはパチ以外にも、PS3のロンチ(になりそこねた)タイトルのキャラモデルやモーション、大手家電メーカーの社内プレゼン用動画など、小さな会社ではなかなか受けられない様な仕事も回ってくる様になり、社長の営業力には感服するばかりだった。
【CGに飽きる】
途中でCGに飽きたことも有った。仕事に身が入らないという程じゃないが、自分の能力の中で同じ事の繰り返し…のっぺりした日々にちょっと刺激が足りなくなっていたのかな…困難を乗り越えてワークフローを確立しちゃうと、飽きちゃう質なのかも知れない。
ただ、某S社にゲームのOP製作に出向したことが有ったが、そのときその気持ちは払拭された。当時は並行して走っていた別ゲームのOPムービー製作に、社内のMaya勢数十人が投入されていたため、俺が参入した方のプロジェクトは外注寄せ集めの傭兵部隊だった。しかし、俺以外は以前も別件で何度か集まり、仕事をこなしてきた方々らしい。皆それぞれ腕が良く、さらに飯の時にも飽きずにCGの話かりしている様な生粋のCG屋さんだった。そして、プロジェクトを仕切っているS社の人がプロジェクトの品質管理もこなして、さらにサクッとスクリプトなんかも書けちゃう超敏腕な方で、俺も「あぁ、自分の能力に満足してはいけないな…」という気持ちになった。
その仕事でも、当初依頼されていたモーションの作業以外にモデリングやシーン構築まで任されたので、一応それなりに活躍出来たとは思います。たぶん。
【CGが出来ない】
立ち上げ当初から1,2年は中途の人も含め、みな出来る仕事はCGだけ…つまり、打ち合わせやプロジェクト管理なんかの経験は無かったので、基本的に俺がやるか、メールの推敲や電話応対のサポートだけはする…みたいな感じだった。しかし3,4年も経てば、それなりにプロジェクトの管理を任せられる人が増えてきた。
それは良いことなんだけど、何やら俺はCGとはあんま関係ない案件ばかり任せられる様になってきた。社長が通い始めた社会人向け大学の宿題の手伝いやら、家電用UIを試作するFLASHの仕事、CG一本じゃこの先心配だからiPhoneのアプリを試しに作ってみよう…など。まぁ確かに色々出来るスキルがあるとはいえ、「CG以外は全部お前」みたいに任され過ぎて、CGの仕事をする時間が激減。せっかくやる気がまたムクムクっと出てきたのに、その欲を発散できない…それが不満だった。
また、自分の意見が通らないという事にも不満だった。当時…というか今も変わらないけど、景気は下降線、アジアの安い下請け会社に仕事が流れ、日本のCG業界の売上は低迷する一方…そこで下請け仕事だけでなく、スマホアプリやソーシャルゲーなどの独自企画を発進して、インセンティブを確保していこう!…みたいな流れになった。まぁ、それは良い事だと思う。しかし、社長は元から絵が描けるとか、アーティスト性が強いとか、何か作りたいもののビジョンが有るという人ではなかった。そのくせ(年代的に仕方ないのかも知れないが)オタ的文化完全否定派で全く免疫が無い。なので、企画の上では大衆受けの潔癖なライン以外は排除。そして、アレはダメ、コレはダメと言う割りには、自分の作りたいものなんて全く構想が無いという…最悪のパターン。
イライラがつのる日々。基本的にスマホのサービスも、ソーシャルゲーにしても、小さい企業が始めるなら四の五の言わず小さい企画でもまず形にして出してみてガンガンリリースする…というのが常套手段だと思うのだが。「構想○年(ドヤッ)」なんて流行らないってのに。しかも、その新規事業の開拓が、向こう3年は俺の仕事になりそうな流れだっただけに…もうこりゃたまらんなと。
【会社辞めて】
ってことで、2010年7月21日、学友と富士山に登り、御来光を拝んだ翌日に辞表を提出した。
創設メンバーで取締役なので、会社ではある程度好きに振る舞えたし、給料も良かった(辞めた会社の2倍)ので、社長に文句言いながらダラダラと過ごした方が安泰だった事は確かだ。でも、自分が好きなことをやって食べていける人間か、どうしても試したかった。また、もしそうであったなら別に食っていくだけの収入程度でも楽しい日々を送れるんじゃないかな~と考えていた。
周りからは、俺が居たからこその会社だと言われ、自分でも謙遜無しにそうは思うんだが、会社を立ち上げるというリスクを負ったのは社長であり、また仕事もコネクション無しではとってこれない。別に社長がそういった事を俺に言った事はないのだけどね。社長も俺もお互いに感謝しているのだ。
だが俺は、「これが俺の成果です」って、胸を張って言える様な足跡を残したいと思ったし、それはこの会社では出来ないと判断した。辞めた理由の一番大きいところはそこだ。ここに留まっていては自分が良いと思ったモノが本当に世間に通用しないのかどうか、試すことは出来ないから。
一応最も迷惑の掛からない様に去り時は考えたつもりだ。それでも多少は降りかかるであろう困難も有ろう。ならばその困難は俺が背負っていた大変さなのだから、残った人たちで頑張って受け止めれば良いかなと。その代わり俺は何も要らない。積み重ねてきた実績も、培ってきた仕事の繋がりも、育ててきた人員も、全てお前らにくれてやるから、俺は自分が培った技術だけでゼロからやってみる。
ってね。
【そして同人へ…】
2010月8月31日に会社を辞めることになったが、有休が1ヶ月分貯まっていた。だから約1ヶ月は給料を貰いつつ、休みだ。ホントは「ソーシャルゲーでも作ってやるか~!」と思ってたんだけど、貯金が100万しかなかった(笑)。それで、DLsiteに資料請求したのを思い出し、ひとまず自分のこれからを考える時間を確保する程度の売上さえ有れば…と、6年前に諦めたDL同人作品の製作を再開した。思えば趣味でCGを始めてから10年越しに、やっと憧れの自分用の3dsmaxを買った。50万である。Photoshopは手持ちのFlashからセット販売のアップグレード版買って、動画だからAfterも買わないとな。20万である。マシンが非力すぎて動画どころじゃないから組まないとな。30万である。おい、無一文じゃねぇか!楽しくなってきたぜ!!
最初の数日はオリジナルで何か作ろうと思ったんだけど、前々から何か作ろうと思っていたわけでもないのでイマイチ的が定まらず。勿論DL同人がどういうものかもよくわかっていなかったので、流行の傾向もわからず。なので、当時見始めていたアニメを題材にしてみることに。えーとPCエロゲだとキャラ5~6名でパッケージが1万円くらいするから…値段を人数で割って…さらにアニメーションすれば1500円でいいかな?なんて割と適当でした。市場相場?知りません。
かくして、ほぼ有休消化の1ヶ月で完成したのが
Cats
Attacks
なのでした。まぁ題材が有るとは言え、コンテから真っ新な動画を作るのは初めてたったので大変でした。お尻周りのセットアップがどうしても納得いく絵にならなかったので、前側だけで頑張ったりな。思えば会社に居た頃、いつも専門学校からの「今年の卒業生の卒業作品です」と送られてくるあの拙い作品群を見る度に本当に羨ましかったんだよね。やっと好き勝手にCGを作れたなぁ…と、してやったりな気分になったね。
そんなこんなブログの最初の方に戻る。
———————-
基本的にエロ同人作家の素性や自分語りなんてのは商売において単なる不純物でしかない…と思っているので、今まではプロフも適当だし、全くそういうのはしなかったんですけれども。来年はまた少し違う気持ちで取り組もうかと思ってます。
新作情報を心待ちにして居る方には、年の最後で関係のないダダ長い文章で大変申し訳ないです。ただ、あの日ゼロスタートをきった自分にとっては、そういった新しい作品を待ってくれる人というのは、自分の働きかけで得ることの出来た大切な繋がりです。また、ツイッターで構ってくれる方々も同じです。本当に感謝してます。2013年は三が日だけボケーっとしてから、ビシッと頑張りたいです。
あと、自分は学生時代から「CGが好きだけど、それで食っていくにはいったいどうすれば良いのだろう…」と、ずっと考えながら手探りでやってきた。今は専門学校も充実しているし、ネットでも簡単に調べられるという点では良い時代だ。ただ、道が探しやすくなっても職に就くのが簡単になったわけではく、就職に関しては求人数を見ても依然として厳しい時代だと思う。自分はこの10年、成人してからバイト、平社員、会社の幹部、SOHO、海外出張、会社の創設、役員、エロ同人など色々なポジションでやってきました。このブログの記事が「へぇ、そういう生き方や、選択も有るのか…」と、クリエイティブな仕事を志す誰かの刺激になれば良いなとか、都合の良いことをチョットだけ思ってます。
はぁ…猫物語見るの我慢して書いたので許してね(録画したの楽しみや)。それでは良いお年を…あれ?もう明けてた。喪中なので今年もよろしくとだけ。ではでは。
私みたいな引き籠りがこんな「コダワリ」や「技術」を持った人らの居る所に書き込むのはお門違いですが・・・
作ってる作品がたとえ同人だろうがなんだろうが、
応援してます。
名無しさんはじめまして。
コダワリや技術はその人が持ってるだけじゃ意味が無くて、技術や前知識が無い人達がパッと見て「これはイイものだ」と思って貰える形に、如何に落とし込めるかが勝負だと思っています。
なので全然お門違いではなく、コメント頂けることが自分にとっての大きな報いです。ありがとうございます。
すごく興味深く読みふけってしまいました。
自分も2010年から同人活動始めた口なので色々思う物がありました。
やはり3Dで動画を作れる人は本職さんなのですね。
marimoさん始めまして。結構古い記事なのですが拝読ありがとうございます。仕事しながらの趣味の同人なら気楽なのでしょうけど、これで食べるのはなかなかスリリングですね(笑。
>やはり3Dで動画を作れる人は本職さん
んーむ、昨今はMMDなんかも有り、自分が3D入門した頃より間口は広いので、割と本職・元本職じゃない人の作品も有るんじゃないかと思います。ただ、覚えることも多いし、時間もかかるので敷居はそれほど下がってないかなとは思います。
自分は同人で今製作中なんですが(まだ世に作品を出せてません)μ爛々先生の作品は尊敬してます
トゥーン系の作品ではダントツで綺麗で凄くお気に入りです というか憧れです
すべてにおいてクオリティ高くて感動したのと同時に自分とのクオリティとの差に絶望しつつも勉強になるなぁと感じました
記事全部読みましたがめちゃ面白かったったです
椅子をシャア専用にしたのと貯金全部なくなって楽しくなって来た場所は笑いましたw
そして凄い人生を送られてきたのだなぁと感服しました そして自分ももっと頑張らないとって気持ちになりました
っていうか一作目を一ヶ月以内に作ってるってのやばいっすね(´ω`;)
μ爛々先生みたいに凄い作品作れるよう精進したいと思います
これからも3DCG作品頑張って下さい 応援してます!
PS 今は札幌に住まわれてはいないでしょうが自分も札幌なので
なんか嬉しかったですw
いちろうさん始めまして。拝読感謝です。べた褒め照れますね。
1ヶ月…まぁ1ヶ月に納めないとお金無かったってのもありますけどね(笑。今同じスピード出せと言われると難しい位の作業スピードは出ていた気がします。
誰に言われなくてもコツコツ努力して成長・能力向上を図れる人も居ますが、自分は崖っぷちに身を置いてこそ成長するタイプだと思うので、そういう環境に身を置けた事に感謝すべきなのかなとも思ったりします。まぁそれがずっととなると流石に寿命が縮みますが。
いちろうさんも作品頑張って仕上げて下さい(・∀・)ノ
늑대소녀와함께게임어디서다운받아요?
まだです⁽ ´-`⁾